- 「これを照らすものよ、われを照らせ」
- ―ヘンリー・ジョーンズ[出典]
ヘンリー・ウォルトン・ジョーンズ・シニア博士(Dr. Henry Walton Jones, Senior)は中世文学の教授である。人生をかけて聖なる杯を探していた。また、考古学者インディアナ・ジョーンズの父親である。
経歴[]
生い立ち[]
- 「親父がはしゃいだことなんか一度もなかった―彼が小学生だったときでも」
- ―インディアナ・ジョーンズ[出典]
ヘンリー・ウォルトン・ジョーンズ[2]は1872年12月12日[1]にスコットランドに生まれた。ジャック・ウィリアムズは彼の幼なじみだった[2]。少なくとも彼は一度、家出をした。ヘンリーはオックスフォード大学に入り、マーカス・ブロディ[3]やエリック・シス[4]の友人となり、ヘレン・シーモアに学んだ。また、ナイジェル・ウォルカットも彼の師の1人だった。ヘンリーは1893年に大学を卒業し、アンナという名のアメリカ人の女性と1898年[1]に結婚する。
ヘンリーはコネチカットのニュー・ヘイブンに済んでいたころ、幻覚を目にした。それは彼のワイングラスが上昇し、輝き、聖杯に変化するというものだった。翌日から彼は聖杯日誌を書き始め、イエス・キリストの杯を見つけるのに人生をささげることになる。1年後の7月1日にヘンリーとアンナの間にヘンリー・ウォルトン・ジョーンズ・ジュニアが生まれた。またスージーという娘も生まれたが、病気によって幼くして死亡した。
ヘンリーはジョーンズ家に子犬のインディアナという新しい家族を追加した。ヘンリー・ジュニアが初めて歩いたとき、彼は家の屋根に上ってしまった。そのためヘンリーは彼を下ろすために屋根に上らなければならなかった。
1900年、ヘンリーはプリンストン大学[1]で教授として働いていた。その年の8月、仕事のためにヘンリーはマサチューセッツに行った。ヘンリーはそこで聖杯に関する論文を発表した。だが彼の同僚たちの反応は懐疑と嘲笑ばかりだった。ヘンリーはそれに失望したが、研究を続けていった。
世界講演ツアー[]
1908年、ヘンリーは2年間の世界講演ツアーに招待された。それはヘンリーが世界を回って各地で講演をするというものだった。彼は妻と息子と共に旅に出ることに決めた。ヘンリーは息子の学習が遅れないよう、最初の寄港地のイギリスでかつての師であったヘレン・シーモアに家庭教師を依頼した。1度はその仕事を断ったシーモアだったが、ヘンリーの巧みな誘いを受け、4人で旅をすることになった。
彼らはエジプト、カイロに到着した。ヘンリーはジュニアに旅について記録するための日記を渡した。ジュニアはT・E・ロレンスに出会い、その日記に彼から学んだことを書いていった。エジプトでの仕事が終わり、一行は次の目的地であるモロッコに向かった。
モロッコのタンジェに到着した彼らはロンドン・タイムズのジャーナリスト、ウォルター・ハリスに会った。ヘンリーはモロッコのサルタンのために講義をしなければならなかった。ジュニアはオマルという少年に出会っていた。2人は奴隷として捕まったが、ハリスの協力によって連れ戻すことができた。
1910年、彼らは中国を旅していた。ヘンリーはイエン・フー[5]を訪問し、ジュニア、アンナ、シーモアの3人は観光を楽しんだ。ジュニアは毒グモに噛まれ、死線をさまよったが、無事だった。ジュニアが回復した後、彼らは家に戻った。だが、アンナは猩紅熱にかかり、1912年5月[1]に死亡した。彼女はヘンリーに病気を隠し続けていたのだった[3]。
探索の再開[]
- 「父さんのその強迫観念は、ぼくには理解できたためしがないよ。母さんもそうだったけどね」
- ―インディアナ・ジョーンズ[出典]
アンナの死後、ヘンリーとその息子はユタ[3]のモアブに家を移した。ヘンリーはフォー・コーナーズ大学で仕事を始めた。ヘンリーとジュニアとの関係はいつもそれほど良くはなかったが、アンナの死後、ヘンリーはますます研究に没頭するようになり、溝が深まっていった。
1914年6月、オーストリア=ハンガリー帝国のサラエヴォでフランツ・フェルディナンド大公が暗殺されたとき、ヘンリーはトルコで研究を行っていた。ヘンリーは息子と彼の友人のハーマンと共に旅をしていたため、安全を考え、帰国した[6]。
1916年ごろ、ヘンリーは再びプリンストン大学で教えていた。彼の息子は高校生になっており、春休みの間、ジュニアは従兄弟のフランクと共にメキシコに出かけた。ジュニアはそこでメキシコ革命に参加した[7]。ヘンリー・ジュニアはそのことを手紙でヘンリーに報告し、さらにヨーロッパでの戦争にベルギー兵として志願することを書いた。たが、ヘンリーは戦争に参加すべきではないと息子に送った。自分からでは通じないと判断したジュニアはミス・シーモアに相談した。彼女はジュニアに手紙を書くようにと主張し、実際に書かせた[8]。
ヘンリーの友人、ジャック・レヴィはジュニアがパリで休暇を取るのを助けた。ヘンリーは研究を続けるため、会いはしなかったが、レヴィ教授に息子宛の手紙を送った。その手紙には戦争をやめるように書いてあった[9]。
聖杯の探索[]
- 「これのどこが考古学だ?」
- ―ヘンリー・ジョーンズ・シニア[出典]
ジュニア(彼は“インディアナ”、または“インディ”と呼ばれることを望んでいた。)と仲たがいしてから十数年後、アメリカの大富豪、ウォルター・ドノヴァンから聖杯探索の依頼を受ける。ヘンリーは昔から研究していたこの聖なる杯に興味を持ち、ドノヴァンの許で働いているエルザ・シュナイダーを助手に、ベニスにとぶ。そこの、ある図書館に、十字軍の騎士の墓そのものがあると確信していたヘンリーだったが、エルザがいないうちに、ヘンリーは連れ去られる。その後、ヘンリーはドイツ国境のブルンヴァルド城[3]に幽閉される。 捕らえられて数十日後、インディが助けに来る。久しぶりに再会した息子と父親は昔のわだかまりを忘れ、脱出に臨む。だが、エルザと、ドノヴァンまでが裏切る。はじめからインディたちの敵だったのだ。ドノヴァンは聖杯を手に入れるためドイツと手を組んでいたのである。捕まった2人は機転を利かせ城からぬける。 そしてエルンスト・フォーゲルの執拗な攻撃からも逃れる。逃走の途中昔からの問題を解決しヘンリーとインディは和解する。ヘンリーは遂に妻アンナの名前を口にし、自分が悪かったと自覚する。
インディの友人サラーと合流する。砂漠に乗り出したドイツ軍から、捕まっていたマーカスを助け出し、フォーゲルを倒し、聖杯の安置される神殿に着く。着いてまもなく先に来ていたドノヴァンらに出迎えられる。ドノヴァンはヘンリーを銃で撃つ。インディは瀕死のヘンリーを救うため杯を取りに行く。聖杯を見つけたが、偽の聖杯がそこらじゅうにおいてあり、聖杯の水を飲んだため、800年間生きてきた聖杯の騎士は偽の聖杯は命を落とすと告げる。誤った杯を選択したドノヴァンは、朽ち果て、崩れ落ち、叫びながら絶命した。インディは中で1番地味な杯を選び、見事、本物を見つけ出す。聖杯の水を飲んだヘンリーは体力を回復し、完全によみがえる。聖杯の老騎士は床の紋章を越えれば永遠の命の効果は消えると教えた。そして、聖杯を持って紋章を横切れば神殿は崩壊する、とも言った。騎士が警告した矢先エルザは、聖杯を持ち、紋章を越える。神殿内に地震のようなゆれが起こり床が割れ、エルザはその穴に落ちて、死亡する。ヘンリー、インディ、マーカス、サラーは無事、神殿を出て、帰路につく。
死とその後[]
1951年、ヘンリーは死亡する[1]。その後数年間はインディは悲しみを忘れられなかった。
4年後の1957年にはインディの机の上にヘンリーの写真が置かれていた。
死後、ヘンリーはマリオン・レイヴンウッドの義父となった(インディとマリオンが結婚した)。また、インディの娘の祖父になった。
1992年、インディは父親のことを、母親に愛された非常に賢い男として振り返った。
舞台裏[]
『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』では2人の俳優によってヘンリー・ジョーンズ・シニアが描かれた。冒頭の場面で顔が映らない彼を演じたのがアレックス・ハイドホワイト、もう1人がショーン・コネリーである。また、アレックス・ハイドホワイトの声はショーン・コネリーが吹き替えた。コネリーはハリソン・フォードより12歳年上なだけだが、親子の役を演じ、ヘンリー・ジョーンズは老人として登場した。
『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』でヘンリー・ジョーンズ・シニアが登場しないのは、引退生活を楽しむため、コネリーが出演を断ったからである。最終的にはインディが彼の写真を見て、彼の死について言及することになった。
ヘンリーのミドルネーム、“ウォルトン”はジョージ・ルーカスと彼の父親のミドルネームである(父子で共に“ウォルトン”)。
『インディ・ジョーンズ/若き日の大冒険』では若い頃のヘンリーをロイド・オーウェンが演じた。オーウェンはよりヘンリーに近づけるためにショーン・コネリーの声を真似し、茶色のコンタクトレンズを着けて演じた。また、このシリーズに登場するヤング・インディを演じたショーン・パトリック・フラナリーは実際はオーウェンより1歳年上である。
登場作品[]
英語の題名は未邦訳作品。
|
脚注[]
外部リンク[]
- ヘンリー・ウォルトン・ジョーンズ・シニア at the Internet Movie Database (英語)